最終電車だ。羊飼いに追われる家畜のように、アナウンスに急かされた人々が12両からなる箱の中に滑りこんでいく。これだけ人がいるのに、話し声はまだ遠い。昼間のように明るい車内であっても、今が夜だと言う遠慮がそうさせるのだろうか。左腕にしている時計を見た。午前一時より少し前。日の入りからも日の出からも遠い、紺色の時間。 「乗らないんですか?」 手にしたペットボトルの表面を滑った水滴が、プラットホームの無機質に乾いた地面に模様を作る。円を尖らせたような灰色の中に宇宙を見る。不規則という規則性がそこにあった。落下する水滴の質量、速度、空気の抵抗を受けて弛む水表面のその波長、コンクリートの表面の傷、温度、湿度――思いつく限りの要素が全て絡み合って決定された図形を私は凝視した。 「もし、乗らないんですか?」 杖をついて花が散るよりもゆっくりとホームを歩く老人を見かねたのか、電車から一人の女性が飛び出てきてなんとやら、声をかけている。老人も女性も、どこかで見たような顔をしている。何を言っているのかよくわからないけれど、きっとこんなことを言うのだろう。大丈夫ですか、おじいさん。いや、なんてことない。けど、手伝ってくれるのかい、優しいねえ、お嬢ちゃん……。そこで私ははっとした。顔を上げる。私は座っている。プラットホームに点々と、距離を空けて設置された備え付けのベンチに腰掛けている。そして今、誰かの声がした。誰かは知らない、しかし私以外の誰かの声がした。 「酔っているのかい? 君、電車に乗らないんですか?」 それは紳士の声だった。隣の席だ。四席ある内の一番左に私がいて、その右隣りの席に一人の男性が座っている。私はようやく彼を見たが、彼もまた私を見ている。私たちは見つめ合っていた。近い距離だ。どうして三つも椅子が空いているのにすぐ隣に座るのだろう。私が座っているベンチに彼がやってきて、私の右隣りの席に座る確率は三分の一だ。ゆえに確率から言えば彼と私が手を伸ばせばふと触れ合えるような距離にいるのもそうおかしなことではなかったけど、私はこれがおかしなことだと知っていた。数字の世界は美しいけれど、この世界は地下を伸びる地下鉄の路線図よりも複雑で、彼の行動がおかしなものではないと断じるのは、ペットボトルから落ちた水滴が正円を描くよりも難しいことだった。 「私は酔っていません。電車にも、乗りません」 一瞬誰の声だろうと思想が揺らいだ。なんてことはない、私の声だ。この喉を震わせて発せられた私自身の声だ。しかし毅然とあろうとした理想と違って、その声は親を見失った子供のようにか細いものであった。あるいは私は酔っているのだろうか? 右手に握ったペットボトルに目を落とす。ごく一般的なミネラルウォーターだ。この場合の一般的というのは、どのスーパーマーケット、コンビニエンスストア、自動販売機でも売られていると錯覚するくらいよく目にする、という意味の一般的だ。封は開いていない。つまり、私は酔っていない。 「電車に乗らないんですか? これが終電なのに?」 「乗りません。最終電車であっても、乗りません」 「だったら君はどうしてこんなところにいるんだい」 男が私を見て不思議そうにしている。私たちは広いプラットホームの一つのベンチで身を寄せ合うようにして見つめ合っていた。彼の瞳はとても濃い緑色だった。アマゾンの密林奥深くに聳える樹木に絡みつく蔦の葉よりもなお深い色を湛えている。夜の色だ、と思った。夜の帳が落ちた森の色に似ている。 電車を見ると老人が女性の手を借りて八番目の車両に乗り込むところであった。それを見て私はふと気付く。ポケットに入れたままにしていたものの存在。取り出してみた。入場券だった。 「そういえば私は、誰かを見送りに来たのだった。だから、電車には乗りません。それが最終電車であっても」 「そうか、乗らないのか……。だったら、一体誰を見送りにきたのかな?」 「誰を? そんなの、決まってます。わざわざ入場券を買うくらい、親しい人をです」 「誰のこと?」 「だから、私の大事な人」 漠然と彼の質問の意図を理解していた。私の大事な人とは誰だろう? 私は入場券を買ってここに入った、つまり電車に乗るつもりもないのにここに来た。それに見送り以外のなんの意味があるだろう。でも、誰を? やはり私は酔っているのかもしれなかった。例えば、私は隣の男性に対してこういう疑問を抱いている。あなたは電車に乗らないのですか? しかし意識的に私はこの質問から目を逸らしていた。ただ彼の問うことにだけ愚直に答えている。努めて機械的であろうとしている。電車の中に腰を落ち着けた人がみな私たちを、私を見ている。ここは現実ではない、と思った。だから私は酔っているのかもしれなかった。 「わかった、君は大切な人を見送りにきたんだね」 おもむろに空気が動き出した。見ると隣の彼が立ちあがってしまっていた。あっ、という声が漏れたかもしれない。彼は私を見降ろしていった。逆光だ。 「しかし、私はあの電車に乗らなくてはいけない。終電だからね。逃してはいけないんだ」 ああ、子供が泣いている。泣きじゃくっている。親は何をしているのだろう、早く慰めなくてはならない。私は辺りを見渡した。電車の乗客は私を見ている。五歳くらいの幼子がじっと私を見ている。その黒色の宇宙に吸い込まれる錯覚を覚えた。子供は私だ。ああ。嗚咽が零れた。私は泣いていた。顔を上げることができない。左手の中で入場券が濡れていく。呼吸をしようとするだけで唇が戦慄いた。 「君は賢い子だ。あの電車に乗るのは私で、君ではない。この電車が行ったらお家に帰るんだよ」 とめどなく流れる涙を拭う私の頭上で彼は言った。磨かれた革靴がプラットホームの灯りを映し返しているのがわかる。彼は優しい大人だった。私を慰めてくれる大人だった。 私の泣き声も、ホームのアナウンスも、老人の杖の音も掻き消してベルが響き渡った。発車の時間だ。紳士は言った。もう行かなくては。 「待って!」 私は顔を上げた。視界は溢れる海の水によって天然に滲んでいた。息がうまくできない。きっと私は溺れている。それでも私は言わなければならない。まだ行かないで! 「だめだ。もう電車が出る。私は行かなければならないけど、君は家に帰りなさい」 「嫌よ! 待って、お願いだからもう少し待って」 ここに来てようやく、私は確信とともに立ちあがった。彼はすでに電車に半身を任せている。後は残る片足を仕舞い込めば旅支度は終わる、終わってしまう。ただ一つ不思議なことは、私が去りゆく彼の体に縋りつかなかったことだ。拭いきれない涙がついに落ちて、プラットホームの無機質なコンクリートに宇宙を作る。私は泣いていた。どうして? 彼が私の大切な人だからだ。思い出す。私たちは二人でここに来て、あのベンチを選んで座った。彼は私の大切な人で、私は彼の大切な人だから隣あって腰掛けた。大切な人なのだ、大切な人なのだ! 「行かないで、待ってよ……。いい子にするから、ねえ! まだ行かないで」 「電車の出発時刻は決められている。ここでお別れなんだ、わかるね?」 「わからない、わからないわよ……。この電車はどこへ行ってしまうの? 次はいつ会えるの?」 彼は最後、困ったように笑った。心地よい、聞き慣れた声で私を諭した。いい子だから、さあ、カリンカ。 そうして扉は閉まった。最終電車は八番目の直方体に私の大事な人を乗せて旅立っていった。驚くほどあっけなかった。これは夢であるはずだ、私はそう思った。これが夢でないとするなら、多くの人が不幸せになる。だから、これは夢であるはずだ。そのほうがいいから――。 電車の去ったプラットホームは閑散としていた。遠くに見えるあれは街並みだろうか? 星の瞬きよりも慌ただしく光が蠢いている。最終電車を見送った街は、変わらず生を営んでいる。 |