輪郭から音もなく風に舞っていく。
聴覚の復帰を境に、磁石が引き合う時のように、フラッシュを引き上げる力が急に強くなった。世界を浚う風は一層激しくなり、何かの音が聞こえる、と知覚する頃にはついに暗闇が訪れた。
ザーーーーーーーーーー・・・
目を開く。
うなじに繋いだケーブルの先、コンピュータの中だけに存在する質量の無い世界に傾けていた意識を戻すと、薄暗い自室が低いノイズに包まれているのがわかった。
「雨か・・・」
これからいつものロボット廃棄場に出向こうと思っていたのだが、止めた方がいいかもしれない。普段から足場が悪く、注意深く歩いていてもひっくり返りそうになるほどの場所だ。雨の中歩き回りたいところではない。
では午後の予定はどうしたものだろうか。それぞれの仕事がどの程度進んでいたかを思いだしながらコンピュータを操作して、首の後ろのソケットに繋がる数本のコードを引き抜く。フラッシュの感覚に過ぎないが、なんとなく纏わりつく空気が湿度を増した気がした。
五感のほとんどを投影するネットダイブは、現実世界にやることを抱えた身としてはあまり褒められた趣味ではない。しかし湿気と雨音で不快指数が上昇する一方のこちら側に対して、常に暑さも寒さもなく、自由度も限りなく高い電脳世界で過ごすこと自体が、フラッシュにとっては一種の気分転換であった。ダイブ後、短時間での情報処理に追われて、動作の鈍くなった電脳を抱えても構わないのならば、体感時間を調節して、ほとんど時間をかけることなく十分楽しむことができる。時間も金もかかるバブルの趣味に比べたらよっぽどマシだ。
午後の予定を決めるつもりが、途中から、博士のロボットとして常に準備を云々といった話に口うるさいメタルに対しての文句になっているのに気づいて軌道修正にかかる。どいつか暇そうなやつを捕まえて倉庫の掃除でもしようか。
閉め切っているせいですっかり淀んでしまった室内の空気を振り払うように、椅子の背もたれに体重をかけて大きく伸びをしたフラッシュは、何気なく背後を見やってぎょっとした。思わず跳ねあがった足がデスクの裏を叩くくらいには驚いた。
誰もいないと思い込んでいた部屋のベッドの上、存在感甚だしい赤い機体が仰向けに横たわっていた。邪魔だったのだろうか、あまり上等じゃないシーツをベッドの端に追いやって堂々と人の部屋で眠っている。
基地内のさらに自室であるということもあって、警戒は解いていたし、レーダーの類いも使用してなかった。しかし、ダイブの浮上から今まで、こんな目立つ存在にまったく気づきもしなかったのは少し、どころか大分問題がある気がする。対メタル専用で万年反抗期なフラッシュだが、この趣味はちょっと見直した方がいいかもしれない、と思った。
「おい、てめえ人の部屋で何やってんだ」
デスクに膝を打ち付けた時に鳴った盛大な音が、響く雨音にすっかりかき消されて行くころ、気を取り直したフラッシュは椅子に座ったままクイックに声をかけた。そもそもこいつが勝手に部屋に入り込んだ挙句ベッドを占領しているのが悪い。
一人驚いてびくついた恥ずかしさはクイックへの苛立ちにとって変わったようである。やつあたりにとれなくもないが、この場合クイックにも非があるだろうからなんとも言えない。
肝心のクイックは目を閉じたまま、かけられた声に沈黙だけ返した。スリープモードなのだろう。
「クイック! 寝るなら自分の部屋に行け」
「・・・・・・んー?」
要領を得ないクイックの返事に、もとから高かった不快指数は、下がる気配もなく上がる一方である。
付き合っていられるか、と立ち上がったフラッシュは、ずかずかとベッドまで歩み寄った。額の鋭利なエンブレムを引っ掴み、クイックの聴覚センサーのギリギリで叫んでやる。
「寝ぼけてねえでとっとと起き」
別に変なところで噛んだわけではない。
「寝ぼけてねえで」あたりでパチリと目を開けたクイックが、戦闘時さながらの素早さを以てフラッシュをベッドの方へ引き倒したのである。急な行動に、金色のブーメランを掴んだ左手を思わず離したフラッシュは、引かれるままに、固い胸部へ顔面から突っこむ羽目になった。
「――てめえ・・・」
当然ながら痛い。
即座に顔を上げて食って掛かろうとしたフラッシュは、今度は後頭部を押さえて赤い機体にフラッシュを押しつけた大きな手によって、再び沈黙を余儀なくされた。
「よし」
おそらく寝ぼけているのだろう。
押さえつけられながらも抗議を繰り返すフラッシュの声は、そのまま胸部に響いて多分に鬱陶しかったはずなのだが、クイックはそれを厭うどころか何故か満足そうに呟いて、身動きの取れないフラッシュを置いて二度寝にはいった。
まったくよくないフラッシュは喚くのを止めた後しばらくごそごそと現状の改善を試みたが、さっぱり事態が好転しないのを悟って早々に諦めた。うつ伏せていた顔をなんとか横に向けるのには成功し、両膝をベッド脇の床に突いたまま、上体の体重をベッドに預ける。ただし今の場合、フラッシュとベッドの間には、当然クイックの機体が挟まっているので、クイックに体重を預けたと言った方が正しい。
よくわからないまま行動を制限されたフラッシュは、降りしきる雨の音を聞きながら、ふといつかのクイックとの会話を思い出した。
話の流れはどこかのフォルダに圧縮をかけて放り込んでしまったのでわからないが、確かクイックが「雨は嫌いだ」と言ったのだ。周囲への興味が極端に薄いクイックが、嫌悪と言えども、一定以上の感情をたかが天候に向けているのが意外だったのを覚えている。それで、フラッシュなりにその理由を推測して「走りにくくなるからか?」と尋ねた。
さて、それに対してクイックはなんと答えただろう。
少しの間フラッシュは、記憶に検索をかけたりしてみたが、見つかりそうにないので諦めた。おそらく質問の答えは圧縮されたデータの中にあるのだろう。わざわざ展開するのは面倒くさい。
いつも動きまわっているイメージから、フラッシュは勝手にクイックの機体温度が高いものと思っていたが、こうしてみると案外ひんやりしているのに気づく。高速移動中、空気との摩擦で上昇する機体表面の熱が内部に支障をきたさないように、還流冷却管がフラッシュよりも外側を走っているのだろう。
枕にするには固すぎるが、存外冷たいのに満足して、フラッシュは目を閉じた。予定とはずれた上に、休息をとる割には変な体勢だが、こんな時間の過ごし方もたまには良いだろう。
スリープモードに移行する前には、データのバックアップをとるための空白の時間がある。データの保存に追われて状況判断をないがしろにするCPUに引きずられてぼんやりとした意識の中、フラッシュは水の流れる音を聞いた。
雨はまだ降り続いているのだろうか。それとも、枕代わりの機体に流れる冷却水の音か。
疑問ともつかない問いの答えを導くより先に、「データのバックアップが終了しました」という旨のメッセージが表示される。
強まった雨音がフラッシュの部屋を一層騒がしたが、結局二機とも夕方まで目を覚ますことはなかった。