急に上体が軽くなった。
あれ、と思う前に両腕の痛覚を切る冷静な自分もいた。右は肘から先を。左は肩から先を。そんなことを優先させるものだから、傾いだ体を戻すすべはもうなかった。しまったなあと思いながら濃縮された時間の中で次の手を考える。倒れて、それから。どうしようか。両腕を失ってもまだなんとかなる相手だろうか。
流れる視界の中に見慣れた影があったような気がしたけれど、確認する前に夜でもないのに暗闇が訪れた。
傾ぐ体が終わりを迎える。
そのわりに衝撃を感じなかったのは、倒れる前に意識が飛んだからか、弟がこの体を支えたからか、ついぞわからないままだった。
*
揺れた。
何だろうと思う間にもう一度揺れる。思わず首を捻ると、もう一度。
どうやら定期的に揺れている。
「フラッシュ」
「なんだよ」
目の前にある弟の顔に声をかけると、物凄く不機嫌そうな声で返された。こちらとしてもとりあえず名前を呼んでみただけで特に意図はない。
弟の不機嫌も無理はない。この機体は弟の軽く倍近い重量があるのだ。それを背負って歩いていれば少なくともにこにこ笑っていられる状況じゃないだろう。
言うことを探して黙り込むと、代わりに沈黙が横たわって、弟が引き摺るように足を踏み出す音だけが聞こえてくる。ぼうっと身を預けていると、弟が右足を踏み出すときに合わせて大きな揺れが訪れていることに気づいた。自分はこの揺れに起こされたのだろう。
「フラッシュ」
今度の呼び掛けには返事がなかった。
「脚、」
「……」
「損傷してる」
「だからどうした? できるかぎりの処置はしてある。大体、両腕吹っ飛ばされたやつにどうこう言われる覚えはねえなあ」
確かに弟の言う通り、右のドリルと左の肩から先がきれいに無くなっていて、飛び出たコードから時々火花が散っている。痛覚は切っているので痛みはないが、さっきからキャンセルしても浮かんでくる警告メッセージが鬱陶しい上に、揺れる体を支えることもできやしない。
しかし二本の脚には損傷はないし、重量のある自分が、脚をやられた弟に背負われているのは大分おかしな状況だ。
「歩く」
「いいよ。メタルと落ち合うところまでそう遠くない」
「異常はない。歩く」
「……」
そこで弟はぴたりと足を止めた。やはり右脚が痛むらしく、体重が妙に偏っている。
体勢的に表情はさっぱり伺えないが、なんとなく、雰囲気から察するに怒っているような気がする。
「フラッシュ?」
返答は言葉ではなく行動で返って来た。
不安定な体を支えるためだろう、弟は今まで前のめりにしていた姿勢を、今になって急にぴんと伸ばした。重力が体を後ろにひっぱる。一度意識が途絶える前に感じた浮遊感と同じものを感じて、無い腕で慌てて体勢を立て直そうとする。弟はそんな様子に気づいているだろうに、少しも気にするそぶりを見せずに、両足を抱えていた両腕を離した。
「!」
どさりと仰向けに投げだされる。弾みで両腕の断面からひときわ大きな光が散った。腕自身の痛みはないが、左頬がほんの少しだけ焼けた。
弟の意図が掴めずに、驚きを隠さないまま晴れと曇りの間くらいの空を眺めていると、弟が視界に入りこんできた。
「何ぼーっとしてんだ。立てよ」
いくらなんでもいきなり落とすのはひどいんじゃないだろうか、と思いつつ、不機嫌な様子を感じとって黙って立とうとした。肘までは残っている右腕を支えに足に力を込める。が、一向に立ちあがれそうにない。
両腕がないのに関係なく、そもそも力が入らない。なんか変だ、と首を傾げていると、こちらを見下ろしていた弟がしゃがみこんだ。空を背景に近づいてきた弟の顔は、軽く逆光になっていて表情がわかりづらい。
「ガス欠だよ。いくらなんでも、腕が千切れたくらいじゃ気を失わねえだろ」
「……」
ガソリンを燃料にしているわけじゃないので、ガス欠という表現は間違っているんじゃないか、と思ったけれど黙っておいた。我ながら懸命な判断だったと思う。
「規定以上の運動に電力の供給が追い付いてない。なんで俺がこんな苦労してお前を背負っていたかわかったか」
「……」
なんとなくわかっていたがどう答えたらいいのかわからないので、とりあえず頷いた。何を答えても怒られる気がする。
しかし頷きは誤魔化しと思われたのか、弟はさらに顔を近づけて怒鳴りつけてきた。
「てめえが人の話も聞かずに散々暴れた挙句、エネルギー切れでぶっ倒れたからだバカ野郎!!」
思わず両手で耳のマイク部分を塞ごうとしたが、無いもので塞げるはずもない。そもそもあったとしても、ドリルアームで塞げるものでもないのだが、多分もともとプログラムされている反射の類いなのだろう。
「ついでに言うと俺の負傷もてめえのせいだ。帰ったら覚悟しておけよ」
苛々と言い捨てると、弟は未だに弾けるコードをものともせず、肘まで残った左腕を掴んだ。反論も謝罪もする暇もなく、一本背負いの流れで背中まで担ぎ込まれる。もしやそのまま投げられるのではないだろうかと思っていたので安心した。
それから何度か乱暴に担ぎ直して、不安が残るもののなんとか安定した体勢になった。しかし両腕の損失と弟の負傷、重量差とが相まってやはりかなり辛そうだ。
「さっき異常がないっつってたが、異常がないと思う時点で異常なんだ。人のことはどうでもいいから、しばらく黙って背負われてろ」
そう言ってまた歩き始めた弟の顔は、やはりこちらからは見えない。最初に起こされたのと同じ揺れと共に運ばれていると、落とされたり怒られたりしたのがなんだか嘘だったように思える。しかしさっき落とされた拍子に焦げた人工皮膚がそのままなので、やっぱり落とされたのだろう。
弟は変わらず苛々した様子で、「くそ、重てえ…」と時々呟いている。
その様子にすごく迷惑をかけたのだ、という実感がようやく湧いてきたが、謝るのもできずに、少しだけ残った両腕で懸命に抱きしめる。力を込めたからか、収まりつつあった火花が再度散って、弟の左の頬を薄く焼いた。